竹村さんと最初にお会いしたのは、新建ちばでまちづくり研究会のような会を開いたときに竹村さんが
お出になったときです。
あの頃は、地域の建築、都市、まちづくりをどう進めるかなどと考えていた時期で、千葉で仲間が集まり、
共に考え、実行、実現して行きたいということで、現場で作る人、出来た建築を使う人、これから作る建築を
企画する人、予算を立てる人、工事を監理する人、出来た建築を管理する人などが集まり、活動を始めた頃
新建という自分達と同じ様な考え方をしている集団があると聞き皆で入会し講演会や、見学会などの
活動をしていました。
私自身は、かけだしの設計者でしたが、しゃかりきになって設計しても仲々よい街にはならない、
『よい街、よい建築』とはどういうものか、どうしたらそういうものが出来るのか、設計者としての限界の
ようなものを感じ始めていた時期です。
竹村さんの第一印象は、小柄で、物静かな、お年寄りで、他の参加者が皆若い人でしたので、
一人目立っておりまして、あの人どなた、知ってる?などと隣同士でささやきあっていたことを思い出します。
とても不思議な人でした。
竹村さんは、若い頃の建築運動の話をして下さいました。山口文象氏の話題、海老原一郎氏の話題、
創宇社の話題、など熱心に話されました。
私は、設計者として竹村さんのお年まで生き々と若々しい新鮮な感覚を持ち、常に客観的で体制に
流されない批判的な見方が出来るかなと時々お会いする度に思いました。思い出すのは、山本学治先生の
講演会で『これからの設計者は町医者的な生き方でしょう』と印象に残るお話を伺えたり、
海老原一郎先生の講演会では、設計者としての執念のようなものを感じる事ができたのも竹村さんを
通じての影響かも知れません。竹村さんと自分を重ね会わせて考えてみると私はだいぶ生き方が違うなと
いう感じがします。
3〜4年前に、ウィーンでオットワグナーの建築を見る機会がありました、郵便貯金局(1906)の
良く計画された上部採光によるあかるい室内、洗練されたインテリア等とても90年近く前の建築とは
思えませんでした。いま改めて当時の建築を調べて見ますと、竹村さんが創宇社に入会された
1925年(大正14年)前後の建築は、アントニオ・ガウディのサクラダファミリア聖堂(1926)、
カサ・ミラ(1910)、グエル教会・公園(1914)、ヘルシンキ中央駅(エリエル・サーリネン1914)、
東京駅(辰野金吾1914)、ストックホルム市庁舎(ラグナール・エストベリ1923)、ストックホルム市立図書館(ダンナー・アスプルンド1928)、バルセロナ・パビリオン(ミース・ファン・デル・ローエ1929)、
フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル(1923)、ユニティ教会(1906)、ロビー邸(1909)、
結婚記念塔・展示館(ヨーゼフ・マリア・オルドリッヒ、ダルムシュタット1907)、シュタインホーフの教会(オット・ワグナー、ウィーン1907)、カタロニア音楽堂(ドメーネック・イ・モンタネル、バルセロナ1909)、
カール・マルクス・ホーフ(カール・エーン、ウィーン1927)、クライスラービル(ウィリアム・ヴァン・アレン、
ニューヨーク1930)、サヴォア邸(ル・コルビュジェ、パリ郊外1931)、エンパイヤステートビル(シュリーブ・ラム・アンド・ハーモン、ニューヨーク1931)などがあります。(資料・新建築社・建築20世紀1より参照)
これらの建築は、この5〜6年の間に私が見学したものです。この時代に竹村さん達は、創宇社、分離派、
などという建築運動をされて、新しい市民にとっての建築はどういうものか、建築と芸術、建築の表現方法
などを、若い仲間達と議論されていたかと思いますと、大変感激いたします。
現在、私たちが普通に設計できている事は、竹村さん達のお陰ではないかと改めて感じました。もっと早く
気がついていれば、時代の生き証人として様々な事柄が伺えたと思います。
時代は、常に変化をしております。竹村さんに笑われないように生きていきたいと思います。
(UCA・都市・建築設計事務所 主宰)
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